喫煙とがん-分子遺伝学的研究から-
石川隆俊*1
はじめに
がんは現在死亡率の第1位を占め続け、3人に1人ががんで死亡することになり、21世紀になってなお増加が懸念される。一方、がんに対する治療法の発達によりがん患者の半数が治癒できるということも確かである。本項は喫煙とがんという題目である。喫煙を初めから危険な因子と定めているかのようなイメージであるが、研究の目的は、喫煙の危険性を科学的に究明し正しい理解を得ることにより、新しい予防法、治療法を確立することにある。従来の喫煙とがんの研究といえば、たばこと煙やタール中に含有されている発がん物質を同定し、その物質を動物等に与えて発がん性を証明するというような研究が主流であったが、喫煙科学研究財団が発足以来8年間助成した研究の成果をたどってみると、研究はきわめて多岐にわたり、喫煙とがんの発生とそれを抑制するメカニズムについて分子レベルの研究が開始されている。研究助成の主旨からみて、助成研究の多くが喫煙と直接あるいは間接に関連のあるテーマを扱っているが、それと切り離しても最先端のがん研究として評価される研究が行われているのも事実である。本項は17の研究グループによる研究成果をまとめて記載したものである。それらの研究のすべてについて逐次述べることは限られた紙面からむずかしく、研究内容に従って類似テーマごとにまとめる方式をとった。また、研究期間は同一テーマでも数年に及んでいるものもあるので、その場合、一番最新のかつ重要と思われる所見を中心に記述することにした。
たばこ煙・タール中の成分による遺伝子毒性とその抑制に関する研究
過剰な喫煙がヒトの肺がんと関係していることは疫学的に証明されており、たばこと煙・タール中にいわゆる発がん物質が徴量に含有されていることは事実である。ベンツピレンを代表とする多環芳香族炭化水素、ニトロソノルニコチンのようなニトロソ化合物をあげることができる。これらの発がん物質は体内に吸収され、細胞内に入って薬物代謝酵素の働きによって活性化体となって細胞核のDNAに損傷を与える。発がん物質の種類によってDNAにつくる損傷の種類は異なっているが、なかでもDNA塩基に発がん物質が共有結合する場合、あるいは塩基の特定の部分にアルキル基を付加したりする反応が重要である。これらDNA上に生じた損傷を付加体と呼ぶ。DNA上に付加体が存在すると、DNAが複製を行う際にコピーされたDNA上にエラーをたくさん生じやすくなる。鋳型となるDNAに付加体がない場合にくらべ1,000~10,000倍も複製エラーを生じる。その結果として突然変異が誘発されることになり、がん遺伝子、がん抑制遺伝子の活性化あるいは不活性化などによって発がんが起こってくると考えられている。一方、生体はDNAの上に生じたDNA付加体を除去するDNA修復機構をもっている。突然変異の誘発はDNA付加体の形成とそれを除去するDNA修復機構のバランスによって成り立っているとみなすことができる。
DNA付加体の研究では、石川らは、実験動物の肺や皮膚にがんを誘発するモデル発がん物質の4-ヒドロキシアミノキノリン1-オキシド(4HAQO)とたばこ煙・タール中にも含まれるベンツピレン(BP)のDNA付加体を免疫学的手法を用いて組織切片上で検出することに成功した1)2)45)。発がん物質を投与した動物の臓器(肺、皮膚、肝、腸等)のパラフィン切片をつくり、発がん物質DNA付加体を特異的に認識する抗体を作用させ、細胞レベルで付加体の存在をアビジン・ビオチン免疫染色によって濃淡として染め出す方法である。この方法はきわめて感度が高く、検出限度は106ヌクレオチド当り3~5個の付加体、言い換えれば細胞当り104の付加体があれば検出が可能である1)2)。またDNA付加体はイメージアナライザーを用いて吸光度測定することにより、定量的に表わすことも可能である。付加体の形成は投与した発がん物質の量に依存して染色性の差として表わされた。DNA付加体の形成量は臓器により、また動物の種によっても異なり、発がんの種、臓器標的性とよく一致する結果を得た3)45)。またこの方法により、DNA付加体が細胞から除去されるタイムコースも測定することが可能である。
花岡らは、たばこ煙、タール中に含まれる成分のうちニコチン、ピロカテコール、ハイドロキノンに注目し、これらのDNA損傷を感度よく検出するアルカリ性ショ糖密度勾配遠心法を確立した4)5)45)。3H-チミジンでDNAを標識したHeLa細胞に種々の濃度のニコチン、ピロカテコール、ハイドロキノンを作用させたあとDNAの切断を調べたところ、ハイドロキノンが高い濃度で切断を起こしていた。しかし、切断を生ずる濃度は細胞増殖を阻害するところにあり、その切断は比較的すみやかに元に戻るので、ヒトの健康上それほど重要な影響はないものと思われた。
蟹沢らは、4HAQOのDNA付加体の形成をマウスの系統間で比較した。A/J、ddY、C57B1、C3Hマウスに4HAQOを注射し、肺より抽出したDNAについて、32P-ポストラベル法を用いて4HAQO-DNA付加体の形成を調べたところ、肺腫瘍の発生率の高いddYにおいて多くの付加体形成が認められた46)。さらに蟹沢らは、ヒト肺がん患者の手術肺の非腫瘍部からDNAを抽出し、32P-ポストラベル法を応用した。肺がん患者24名を調査した結果、喫煙者12名のうち9名、非喫煙者12名のうち3名の症例で付加体の形成がみられた47)。
たばこの成分中には発がん抑制物質が含まれていることが明らかになってきた。たばこの燃焼濃縮物に含まれるセンブランタイプの化合物は抗プロモーション作用をもつことが判明している。石川らは、同様のセンブラン骨格をもつオオウミキノコから抽出され、抗がん作用の知られているザルコフィトールA、Bを用い、肺腫瘍の発生への抑制効果を検索した。ラットを用いたN‐bis(2‐hydroxypropyl)nitrosamine(DHPN)誘発の肺腫瘍モデルで、ザルコフィトールA、Bは個体当りの腫瘍数について有意に発がんを抑制した48)。
瀬戸らは、環境中に存在する抗発がんプロモーター物質をスクリーニングするために、TPAとn-酪酸の添加によってEBウイルス早期抗原EBV-EAを発現するようになる培養細胞株を利用した。すなわち、抗プロモーター物質が存在するとEBV-EAの発現が抑制されることから、この反応系を用いて抗プロモーター物質の検索を行った6)49)。種々の植物成分を検索したところ、連銭草由来のテルペン類8)、ウルソール酸、オレアノール酸、タデ科植物から抽出したワルプルカナールが強い抗プロモーター作用をもつことが示された9)。また、制がん作用の知られる藤瘤から抽出した4種のフラボノイドについても、強力な抗プロモーター作用が検出された9)。
高野らは、ヒトの培養細胞ではマウス細胞等と異なり、発がん遺伝子を導入してもトランスフォーメーションを起こす頻度がきわめて低いことから、ヒト細胞を能率よくトランスフォームする実験系を工夫した10)11)。ヒトの培養細胞にSV40のlange T抗原遺伝子を導入することにより、トランスフォームさせることができた。しかし、トランスフォーメーションを起こしても細胞の不死化はきわめてまれにしか起こらないことから、トランスフォーメーションと不死化とは独立した過程にあると結論された56)。
及川らは、肺がん患者の末梢リンパ球の培養に対して姉妹染色分体交換(SCE)を効果的に誘導するような薬剤を検索することを目的として、たばこタール、ベンツピレン、Trp-P-2を用いてSCEの頻度を調べたが、肺がん患者に特別に高いSCEを誘発する現象は見出されなかった2)13)51)。
山本らは、たばこ煙の抽出物をラットに注射し、肝細胞よりcDNAライブラリーをつくり、遺伝子発現への影響を調べるために、約30種類の遺伝子プローブでスクリーニングを行った。なかでも、α2Uグロブリンとβ2ミクログロブリンの発現が上昇することが認められた52)。
肺がんハイリスクグループの研究
がんの発症には、遺伝的な要因と種々の外的要因の2つが関与していると考えられる。肺がんについても、喫煙習慣とともに遺伝的な要因がかかわっているという作業仮設のもとに、多くの研究が行われてきた。本財団の助成した研究のなかにもこのテーマに関するいくつかの研究があり、特にこの数年来ヒト集団についての遺伝子解析が可能になったことにより、すぐれた成果が得られていると思われる。
がんの遺伝的要因に関する研究については、染色体の脆弱部位についてアプローチした村田らの研究成果から入りたい。染色体にはいろいろな条件下に切断ないしはギャップを生じやすい特定の脆弱部位のあることが知られている。村田らは、がん患者を含む700名以上の集団について末梢血のリンパ球を培養に移し、染色体の検査を行った。その結果、脆弱部位の発現には個人的なバラッキがかなりあり、性、年齢、季節変化があることから、遺伝的変化というよりも生理的な条件を反映している可能性が考えられた14)15)53)。また、喫煙歴も脆弱部位の発現と直接関係がないことが示された。よく計画された研究であったが、結果的にネガティブであったのは惜しまれる。村田らは、さらに脆弱部位fra(3)(p14)とヒト3番染色体短腕の欠失(LOH)との関係に研究を進展させた16)17)。この部位は肺がん、乳がん、腎がん等でLOHがよく観察されることが知られている。肺がん患者54名について、腫瘍部と近接正常肺からDNAを抽出し、3P21に位置するプローブD3S2によるサザーンブロットを行ったところ、ヘテロ個体22名中9名(45%)にLOHがみられた。LOHの頻度は腺がんで23%、扁平上皮がんで78%であった54)。
土屋らは、肺がんの遺伝子欠失(LOH)について広範な研究を行った。癌研究所附属病院で手術切除された肺非小細胞がん53例について、多数のDNAマーカーを用いたサザーンブロットを行ってLOHを検索した。その結果、従来知られていなかった7個の染色体領域 (1q、2q、5q、8q、13q、3p、17p)に欠失を認め、それらの領域にがん抑制遺伝子が存在する可能性が示唆された55)。それに続いて62例の肺非小細胞がんについて原発巣、転移巣の組織よりDNAを抽出し、LOHを検索した。1p、17p、17qの欠失がりンパ節転移のある群において高い傾向がみられた。このことから、転移抑制遺伝子がこれらの部位に存在することが示唆された。さらに扁平上皮がんと腺がんの LOHを比較し、扁平上皮がんでは9qの欠失頻度が高く、腺がんでは8qが高頻度に欠失していた(図-1)。また9qと13qの欠失頻度が扁平上皮がんで高く、また肺がんにおいて非喫煙者よりも喫煙者で高かったことから、これらの欠失が喫煙と関係していることが示唆された18)19)56)。
肺がん発生と個体差の関連について、発がん物質の代謝と調節能からの検討がなされている。特にベンツピレン(BP)等の代謝活性化にかかわるP450の酵素活性が、発がん感受性を決める一つのカギとなっていることがいくつかの研究から明らかになってきた。
渡辺らは、ラット、ハムスターよりP450の蛋白の精製、さらにP450MC遺伝子のクローニングを行い、全塩基配列を決定し、マウス、ヒトとの分子遺伝学的比較を行った20)21)57)。さらにヒトの肺がん発生との関連において、N-ニトロソ化合物の代謝活性化に関与するP450 I A1とII E1について、ヒト集団におけるRFLP(制限酵素断片長多型)を検討した。ヒトP450 II E1のDNAでは制限酵素DraIを用いることにより、またP450IAIでは制限酵素MspIを用いることにより、それぞれRFLPを検出することができた(図-2、図-3)。がん患者136名(うち肺がん患者91名、消化器等のがん患者45名)および正常対照群76名について、P450 II E1のDraIによる多型を調査した結果、肺がん患者とその他のあいだで多型の頻度に有意差のあることが示された22)-24)58)。
椙村らは、P450 II D6とグルタチオンS-トフンスフェラーゼ(GSTH)の多型と発がん感受性に関して本邦、沖縄、ブラジルにおける研究を行った。その結果、多型の頻度は人種によって異なることがわかり、発がんのりスク評価にはそれぞれの人種内での症例調査を行うことが重要であることが示された25)26)59)。
木原らは、神奈川がんセンターを受診した肺がん患者121名(男性108名、女性3名)と対照165名(男性111名、女性54名)について、末梢血よりDNAを抽出した。GSTM1遺伝子については遺伝子欠損の有無を調べ、P450 I A1については2つの多型を分析した27)28)。1つはexon7の下流に存在するMspI多型で、他はexon7のなかにあるイソロイシン→バリンのアミノ酸置き換えを伴う塩基変異である。MspI多型はリスクを高める。また塩基変異はMspI多型と異なり構造遺伝子の変異であり、代謝活性の上昇を伴う。MspI多型と塩基変異は遺伝的に強くリンクしていることから、MspI多型によるリスクの上昇は塩基変異効果による見せかけの現象であることも考えられる。
辻らは、肺がん発生の高リスク因子として免疫応答機序に関連する HLAまたはTNFβ(tumor necrosis factorβ) の遺伝子の多型に着目し、広汎な研究を展開した。本土と沖縄の肺がん患者とその対照群として、多数の集団について遺伝多型を調べた29)30)。最近の成果によれば、HLA、TNFβの遺伝多型と肺がんの関係では、肺がんのなかにも地域差のあること、HLA、TNFβ多型は予後因子となることが示されている。しかし、辻らは最終的結論にはさらに症例を重ねる必要があると述べている61)。
根本らは、癌研究所附属病院を受診した約100例の肺がん患者と対照群として肺がん以外のがん患者について、レチノール、β-カロチン、ビタミンEを測定するとともに、リンパ球についてAHH活性を測定した。その結果、肺がん患者と対照群のあいだで有意な差を認めなかった62)。根本らは、ラットやマウスの初代肝細胞培養系を用いて種々の培養条件を工夫し、発がん物質の代謝能調節を検討した31)。その結果、従来AHHに非応答系といわれていたマウスも培養に移すとAHH応答がみられることがわかった32)33)。また、ヘテロサイクリックアミンの代謝に関与するCYP1A2は、培養系に移すと急速に減少するが、肝細胞をスフェロイドの形で培養すると活性を一定期間保持することが可能であった34)。
石川らは、DNA修復酸素O6-メチルグアニン-DNAメチルトランスフェラーゼ(メチルトランスフェラーゼ)の活性を、癌研究所附属病院で肺切除手術を受けた66名(男性33名、女性33名)の肺正常部分について測定した。メチルトランスフェラーゼの活性はかなりの個体差を示した。しかし、喫煙歴、性差、年齢によるメチルトランスフェラーゼ活性の有意な差は認められなかった35)63)。
米村らは、ヒトとショウジョウバエについて、寿命の遺伝要因についての研究を行った36)37)。
信州大学の医学部の学生を対象として、父方および母方の曾祖父母までさかのぼって死亡年齢と原因のアンケート調査を行った。自然死による寿命は親子間で相関を示し、特に父-息子間は有意であった。Y染色体上に寿命遺伝子が存在することが示唆された64)。
支倉らは、ショウジョウバエについては系統によって短命と長命の系統があり、それらを用いた交配実験により、常染色体および性染色体の2座位の遺伝子によって寿命が決定されていることを見出した。また、幼虫期から蛹期前半にかけて出現する77KDの蛋白質が寿命蛋白質であり、寿命の遺伝的決定にかかわるものと考えた。これを精製し、飼料にまぜて成虫に与えると、寿命の延長が認められた65)。蛋白質のアミノ酸分析が行われ、遺伝子のクローニングが行われている。
肺がん発生因子としてのストレス
われわれが環境から受けるストレスがわれわれのがんの発生にかかわっていることは、予想されることである。このテーマはきわめて重要であるにもかかわらず、おそらく研究アプローチが困難なこともあって、これまで十分な解答が得られていない。当財団の助成研究のなかにこの問題を扱った注目すべき研究がある。このようなテーマにいち早く助成を行った財団に対して敬意を表する次第である。
竹本らは、この問題にアプローチするためのユニークな実験方法を採用した38)39)。この方法 は、情動ストレスをマウスに与える方法である。マウスに電撃ショックを与えるが、このマウスをsenderと呼ぶ。このマウスに接して自らはショックを受けることはないが、senderマウスがショックを受けるのをみることによって情動ストレスを受けるマウス、これをresponderと呼ぶ。実験はすべてresponderマウスについて行うことになる。senderマウスは朝9時から2分間に1回のわりで電撃ショックを受けるが、responderマウスは隣にいて24時間senderマウスを見てストレスを受け続ける。このような状態におかれたresponderマウスは3時間後から胃粘膜に点状出血を生じ、これがしだいに増加する。このようなストレスを受けたマウスで何らかの細胞遺伝学的変化が生じているかいないかを調べるために、SCE(姉妹染色分体交換)と小核形成テストを行ったところ、有意な差は認められなかった66)。続いてラットを用いて同様のストレスを与えたあと、肝臓中の8‐hydroxy2'‐deoxyguanineのレベルを測定したところ、対照にくらべ上昇が認められた40)。ストレスによってラジカルが発生することが推測された。さらに、ストレスの肺腫瘍発生に及ぼす効果を知るために、マウスのウレタン誘発肺腫瘍発生モデルを用い、ストレスの腫瘍発生に与える影響を調べた。ウレタン注射は毎週1回4週間行った。ストレス刺激は1日3時間、週3回行い、ウレタン処理期間中およびその後半に与えた。実験は全群について完了してはいないが、現在のところ腫瘍発生率、腫瘍数についてストレス刺激群と対照群のあいだで有意差は認めていない68)。
酒井らは、ストレスと発がんについて報告している。彼らは、自ら開発したpassive回避行動を応用したストレス刺激を与える方法を採用している。これは、ラットが動かないでいれば電気ショックを受けないですむような状態におくことにより生じるストレスである。アゾキシメタン1回1mgを4週注射する方法により、大腸に発生する
aberrant crypt fociの数をストレス群と対照群で比較したところ、ストレス群で数が増加する傾向がみられた。同じ発がんモデルを用いて、狭いところに1日1時間拘束する方法により強いストレス刺激を与えたところ、aberrant
crypt fociの数はストレス群では対照群に比して有意に高かった68)。以上、ストレスががん発生を促進するという事実は今のところ示されていないが、今後実験方法をさらに改良することにより、新しい成果が期待される。
異種遺伝子導入マウスを用いた研究
異種遺伝子導入の研究は今や大流行である。医学の分野でも、いろいろな病気の発症に関連した遺伝子を導入したマウス(トランスジェニックマウス)がつぎつぎに樹立され、これらはがん、成人病、免疫病等の研究上きわめて有用であることが示されてきた。今後の喫煙科学の研究にとっても、遺伝子導入マウスの研究は重要と思われる。特に喫煙の個体感受性の問題について、特定の背景をもつマウスをつくり出し、それを用いて喫煙の影響等を個体レベルで調べることが可能となろう。本財団の助成研究のなかにもトランスジェニックマウスを応用した研究があるので、それらについて述べる。
石川らは、DNA修復にかかわる酵素O6-メチルグアニン-DNAメチルトランスフェラーゼの遺伝子を導入したトランスジェニックマウスを樹立した。環境中に存在し、ヒトの発がんの原因となりうる物質の一つにニトロサミンがある。ニトロサミンはたばこ煙・タール中にも徴量に含まれていることが証明されている。ニトロサミンはDNAのグアニン塩基のOの6位にアルキル化を起こす。この損傷をO6-アルキルグアニンと呼ぶが、複製に際して間違った対合を生じ、点突然変異の原因となりうる。O6-アルキルグアニン-DNAメチルトランスフェラーゼ(メチルトランスフェラーゼ)という酵素によって取り除かれる。
石川らは、実験に着手するにあたり、世界で初めて九州大学関口陸夫博士らがクローニングした大腸菌由来のメチルトランスフェラーゼ遺伝子(ada)をC3H/HeNマウスの受精卵に導入し、修復能の高いトランスジェニックマウス(導入マウス)を樹立した41)。導入マウスは、ホモ接合体として何十世代にわたり維持可能であった。肝臓におけるメチルトランスフェラーゼ活性は対照マウスの約3倍で、硫酸亜鉛を注射すると、メタロチオネインプロモーターが作動することにより、その活性は6~8倍に増強した42)。この活性のレベルは、最も活性の高いヒトの肝臓のレベルに相当した。導入したプロモーターおよび大腸菌のada遺伝子がマウスの体内で予定されたように働いていること、マウスの体内でつくられたada蛋白が実際にDNA修復に関与していることも証明された42)。さらに、導入マウスと対照マウスについて、アルキル化剤を用いた発がん実験が行われた。生後2週の幼若な導入マウスと対照マウスそれぞれ約250匹を用い、肝に発がん性を有する少量のニトロサミン(ジエチルニトロサミン、ジメチルニトロサミン)を1回注射し、数か月後に腫瘍発生率と1匹当りの腫瘍数を比較したところ、実験群8群中5群において、導入マウスでは正常マウスにくらべて有意に発がんが抑制されていることが認められた(図-4)。すなわち、メチルトランスフェラーゼ導入マウスは発がんに抵抗性であり、細胞内に存在するメチルトランスフェラーゼは発がん予防上重要な働きをもっていることが示された43)。本研究はDNA修復が発がんを抑制することを示した初めての成果である43)69)。
松木らは、九州大学の勝木元也博士らの樹立したヒトc-Ha-ras遺伝子導入マウスを用い、シガレット煙の影響を調べた。このマウスは自然飼育状態においても高頻度に発がんすることが確認されている。血管肉腫、肺腺腫等が多発し、興味あることに、発生した血管肉腫では導入に用いたc-Ha-ras遺伝子の第61番目のコドンCAGがCTGに変化していた。Hamburg
III暴露装置を用い、これらのマウスをシガレット煙に週3回暴露した70)。現在実験が継続中であり、成果が期待される。
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38) | 川村 堅、安達修一、小田切陽一ほか ストレスの発がんに対する影響(1) |
39) | 竹本和夫 ストレスと発癌. 日本医師会雑誌 111(2):219-223,1994. |
40) | Adachi,S., Kawamura,K., Takemoto,K. Oxidative damage of nuclear DNA in liver of rats exposed to psychological stress. Cancer Res.53:4153 -4155,1993. |
41) | Matsukuma,S., Nakatsuru,Y., Nakagawa,K., et al. Enhanced O6-methylguanin-DNA methyltransferase activity in the transgenic mice integrated with the E.coli ada. Mutation Res.218:197-206, 1989. |
42) | Nakatsuru,Y., Matsukuma,S., Sekiguchi,M., et al. Characterization of O6-methylguanin-DNA methyltransferase in transgenic mice introduced with E.coli ada gene. Mutation Res.254:225-230,1991. |
43) | Nakatsuru,Y., Matsukuma,S., Nomoto,N., et al. O6-methylguanin-DNA methyltransferase protects against nitrosamin-induced hepatocarcinogenesis. Proc. Natl. Acad. Sci. USA 90:6468-6472,1993. |
研究年報
44) | 石川隆俊、秦 秀生、中鶴陽子 タバコ煙タール中の発がん物質によるDNA障害とその防御機構. 昭和63年度喫煙科学研究財団研究年報:154-160. |
45) | 花岡文雄、榎本武美 たばこ煙およびタール成分の培養細胞に及ぼす影響に関する研究. 昭和62年度喫煙科学研究財団研究年報:76-82. |
46) | 蟹沢成好、薄田康広、北村 均ほか 肺化学発癌の癌遺伝子の変異と癌原物質. 平成4年度喫煙科学研究財団研究年報:61-66. |
47) | 蟹沢戒好、薄田康広、北村 均ほか 肺化学発癌の鹿遺伝子の変異と癌原物質. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:59-65. |
48) | 石川隆俊、中鶴陽子 たばこ成分中の発癌性ニトロサミンとその制御因子. 平成4年度喫煙科学研究財団研究年報:37-40. |
49) | 瀬戸 昭、徳田春邦、川西美知子 抗発癌プロモーター物質の免疫学的検索に関する研究. 昭和63年度喫煙科学研究財団研究年報:70-73. |
50) | 高野利也、瀬川 薫、加藤真吾 発癌遺伝子の機能の解析とその機能に対するプロモーターの影響. 昭和62年度喫煙科学研究財団研究年報:50-53. |
51) | 及川 淳、遠田博子、安井 明 肺がん患者に特異的な姉妹染色分体交換誘発感受性の検索. 昭和62年度喫煙科学研究財団研究年報:159-163. |
52) | 山本三毅夫、市吉祐二、遠藤英也ほか たばこの動物細胞に対する作用の遺伝生化学的研究.昭和61年度喫煙科学研究財団研究年報:47-52. |
53) | 村田 紀、沢田勤也 喫煙と染色体の脆弱部位に関する研究. 平成2年度喫煙科学研究財団研究年報:152-158. |
54) | 村田 紀、崎山 樹、沢田勤也 染色体変異性とヒト癌細胞の遺伝子欠失. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:135-140. |
55) | 土屋永寿、石川雄一、中村祐輔ほか 肺癌における遺伝子欠損. 平成4年度喫煙科学研究財団研究年報:149-154. |
56) | 土屋永寿、石川雄一、中村祐輔ほか 肺癌における遺伝子欠損-扁平上皮癌と腺癌における比較-. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:141-146, |
57) | 渡辺民朗、菊池英明、佐上郁子 たばこ成分の代謝に関する分子遺伝学的研究. 昭和63年度喫煙科学研究財団研究年報:181-188. |
58) | 渡辺民朗、井川俊太郎、植松史行ほか ヒト癌発生における個人差とその遺伝的調節. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:114-119. |
59) | 椙村春彦、新井富生、田中正光ほか 日本人の消化器及び呼吸器腫瘍患者特にハイリスク群のP450IID6をはじめとする分子疫学. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:120-122. |
60) | 木原正博、木原雅子、野田和正 発癌における遺伝子多型複合と環境要因の相互作用に関する疫学的研究-(1)GSTM1遺伝子欠損の肺癌リスクと喫煙量の関係について(2)肺小細胞癌発癌におけるCYPIA1,GSTM1遺伝子多型と喫煙量の相互作用について-. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:123-130. |
61) | 辻 公美、源河圭一郎、鈴木信ほか 肺癌とHLA並びにTNFの関連に関する分子遺伝学的研究. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:131-134. |
62) | 根本信雄、中川 健、土屋永寿ほか 肺癌発生の宿主要因に関する酵素化学的研究. 平成2年度喫煙科学研究財団研究年報:128-136. |
63) | 石川隆俊、中鶴陽子 タバコ成分中の発癌性ニトロサミンとその制御-ヒト肺でのDNA損傷修復活性-. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:35-38. |
64) | 米村 勇、支倉逸人、岡野 照 ヒト寿命の遺伝における非がん死亡と肺がんを含むがん死亡の相違. 平成元年度喫煙科学研究財団研究年報:725-740. |
65) | 支倉逸人、米村 勇、岡野 照 寿命遺伝子の発現する蛋白質の構造と機能及び寿命遺伝子の塩基配列の決定. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:960-965. |
66) | 竹本和夫、安達修一、小田切陽一ほか ストレスが化学発癌剤による細胞遺伝学的変化及び化学発癌に及ぼす影響. 平成3年度喫煙科学研究財団研究年報:158-162. |
67) | 竹本和夫、高橋美保子、柴崎智美ほか ストレスが化学発癌剤による細胞遺伝学的変化及び化学発癌に及ぼす影響. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:172-178. |
68) | 酒井敏行、松川義純、藤田直子ほか ストレスによる癌抑制遺伝子の変化と発癌促進. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:179-185. |
69) | 石川隆俊、中鶴陽子 たばこ成分中の発がん性ニトロサミンとその抑制因子. 平成3年度喫煙科学研究財団研究年報:44-48. |
70) | 松木秀明、春日 斉、勝木元也ほか ヒトc-Ha-ras遺伝子導入トランスジェニックマウスの体細胞突然変異および発ガンに及ぼすシガレット煙の影響. 平成5年度喫煙科学研究財団研究年報:45-50. |
*1東京大学医学部・病理学第2